先日、とうとう母親が死んだ。
とうとうというのは、もう11年前から覚悟し始めたことだったからだ。くも膜下出血で、いわゆる上位1/3の予後良好な(すぐには死なない)部類に入ったのだ。
あの時、意識不明な状態で、昭和大学藤が丘病院の先生に開頭手術かコイル塞栓術かどちらにするか聞かれた。後者を選んだ。母は基本的に外科手術を嫌っていたからだ。当時まだ全国に十数人という手技の持ち主といわれた糸川博先生(現在は新百合ヶ丘病院)に託し、成功に導いていただいた。ありがたかった。
医療や介護に詳しい方ならおわかりになると思うが、高次脳機能障害は患う訳なので、10年の間に徐々に徐々に、ほんと「マニュアル」通りに段階的に衰えていくのだ。一つの大きな節目は、歩けなくなることだった。車いす生活。ベッドへもトイレへも風呂へも、みなさんに乗せ下ろししてもらう生活。笑顔が減る。そして、言葉が出なくなる。そして、親族を間違え始める。尿路感染症を繰り返す。幸い、骨折はなかった。
最後は心不全からの肺水腫を起こしており、呼吸困難でわかった。入院、薬剤点滴。レントゲンで水はもうだいぶ引いたなというところで、てんかん発作を起こした。脳に障害の既往があると高確率で起こるものらしい。かつ老人も。くも膜下出血の後遺症について生活面のことは調べたが、起こりうる病気まではノーマークだったので、ああしまったなという気持ちが起きた。でもそれは予防しようのないものだということがまあ救いだった。ここまでくると、もう90なので、無理だ。
脳は「こわれた」状態に入った。やがて下顎呼吸だけになった。意識があった入院から1ヶ月のことだ。体も急激に痩せた。胃瘻は望まなかったので、退院して特養へ戻り、看取りを始めた。
全て管が抜けた状態というのはいいものだ。すがすがしさがあった。特養の玄関で1回、介護士さんのお世話の中で1回、眼を開いた。七日でエネルギーを全部使って、息を止めた。
経過が長くなったが、親に死なれる別れとはどういうものだろう。
10年という時間をある意味与えてくれたので(それは母からなのか、神?からなのか分からぬが)、考える時間が十分あった。私が自分と親との関係性の中で一番悲しかったのは、最期の1ヶ月でなく、今から3年ほど前の、訪ねた時に最初もう私のことが誰だか判らなくなった時だ。他人を見るように怪訝な表情で。名乗って教えれば、ああ、というこころにはなる。
仕方ないとは分かっていたが、最初の一撃はやはりショックだった。認知症の人間を相手に「オレだよ!」と叫ぶわけにもいかない。身体はあるが、心がどこかへ行ってしまったのだ。
それが“最初の”そして“本当の”別れだった。その意味では、父の時と同様、それは糸川先生が永らえさせてくれてから7年目の突然の別れだった。
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